どこかの誰かも見てる空

急旋回急降下、いつも痛がっている

ここから、灯りがみえないか?(みえない。)

卒業研究、「対岸は見える。だがこれはダメなんだろ?」状態

卒論を提出した。16時の提出期限に対し、30分前に妥協して完成とみなし、印刷して15分前に提出した。結果的に言うとごみのような支離滅裂な報告書でもなくエッセイでもなく感想文でもない体裁だけ守ったおかしな文章になった。

4月から週一の研究の授業があって、夏休みは何もせず、10月の中間を迎えた。いま振り返ると、そこまでに、いや、そこからでも先生と相談するなり、研究室の先輩の文章を読むなりして、テーマや目的、計画を変えるべきだった。ダサいとかめんどくさいとか、ひとに頼ったり聞くのが怖いとおびえる前に。

12月に入り、残りの映画を観だした。年末にHDMIケーブルがないという話をしたので、1月にも観ていた。1月12,13,14日にフィルマークスのマークがあるので、そこでも観ていたのだろう。1週間で書こうとする友人がいたが、彼女は調査に行って考察のはしがき構成も考えていたので私の方が劣っていた。今考えれば。提出期限は1週間伸びたが、その時点でしていたことはせめて10月にはしているべきだった。必死に卒業にしがみつく心があれば、テーマの変更ができるギリギリはきっと11月くらいであっただろうから。

12月から図書館を利用するようになり、1月の二週目くらいから研究室にも顔を出すようになった。書くことがない詰み状態だったので、参考文献を読み漁ったり、文章(はじめにと映画の概要、描かれ方)を書いていた。15日くらいから夜まで書いていて、19にひとり女の子が提出した。そのあとは土日含め毎日研究室で14時から夜まで、最後は2日、まともに家に帰って睡眠することなく執筆した。

何度も何度も死にたい消えたいという気持ちがあり、テーマを変えてもう一度研究したいと思いながら書いていた。他のゼミ生はちゃんと調査しているので、分析が甘い、考察が甘い、などでなんでもっと早く取り組まなかったの?といわれても修正かなにかで何とかなってしまうのだろうか。差し替えとかいってたし。論文じゃなくて報告書レベルでも口頭試問で何とかなるのだろうか?

私はそれ以前なので、空をみつめるしかないのだ。

とりあえず出す、ということだけ目標に書いた。結果として言えば、充実した2週間だった。取り組むことで自分の状況、地理の研究とはどういうものか、研究論文と報告書の違いはなにか。前期時点では意味が分からなかった先生の「論文とは言えない、目的の時点でお察し」などの厳しい言葉(他のゼミ生に向けられた言葉)も、そのころになってやっと理解することができた。

出してからは、その過程をやり切ったと肯定し充実していたと評価することができた。

失うものは、内定と親の期待、卒業に付随する思い出たち。あとは応援してくれていた店長や常連の気持ち。

 

悲しんでいても仕方がないんだよな。人間の思考ってすごい。限界の状態でも、光を探そうとしている。SEなんてむいてないからよかった、だとか。しっかり研究を見つめなおせる、だとか。口頭試問で1発合格したい。来年は。 社会にでれば毎日が仕事で、この大学生活は二度と手に入らない(だろう)から、1年延ばせてよかった。だとか。学費は国立なので半期留年で30万あればよいから自分で何とかできるレベルだ。とか。

親は何とか悲しむふりとちゃんと理由を説明しないといけない。実家に帰るならなおさら、、、ライブとかお出かけとかしてもいいのだろうか。怒られるかな。囚人かな。死ぬより留年した方がましだって思いながら論文書いてた。これは今考えても過剰表現ではないな。真理だ。

先生たちは研究室のやり方を改善すべきだと思う。私たちは21年に研究室に配属されて、新歓もなく、先輩との面識もなく、同期も仲良くならず4年まで来た。誰かに相談したりするコミュニケーション基礎ができていない学年。他にも留年する人がいるかは知らないが、いる可能性も大いにある。その子はかわいそうだ。きっと調査もしっかりして書き方頼り方がわからないまま書き上げたんだろう。一緒にもう一年頑張らないか?

他大学や、人間学ゼミ、他学部の卒論の話ばかり聞いて、余裕な感じがしていたが、まったくの無意味だった。私が卒業するためには、私の研究室のやりかたに従って研究を進めなければならなかった。今わかったんだ。舐めていた。甘んじていた。卒論は、10単位あるんだから、それなりの計画をもって苦悩して取り組まないと、詰む。詰んだら、もう一年、親に頭を下げながら、友人と気まずくなりながら、他の人にうわさされながら、生きていかねばならない。まるで殺人でもしたかのような。仲が悪くて良かった。

思えば、高校の友達は浪人休学が多いし、軽音の友達は留年が多いので、「卒業」という観点では苦労しないかもしれない。かわいそうだけど、わたしが笑えれば、ごはんくらいは行ってくれるかもしれない。卒業式とか、打ち上げとか、大人数の飲み会は、もうあきらめよう。楽しかった思い出として、胸にしまっておこう。ほら、3,4にんなら飲みに行ったりできるかもしれないから。

卒論不可で内定取り消しは一番みじめな留年方法だ。

そう思う。一番残酷で、対処のしようがない留年方法だ。思えばサークルの人文の先輩は4人留年している。ひまじんぶん、とはこういう弊害をもつ言葉だったのか。わたしは優秀なんかではない。憧れの先生の激励により高校受験は成功したが、大学受験はいいものではなかった。その失敗はコロナ入学というネガティブな経験によって後を引き、成功経験がない自己肯定感のまま自堕落な大学生活を送っていた。優秀でなければならないっていうのは固定観念で、幸せに生きていればいいとも思うが、優秀であったという自分の誤解を解くために書いておきたい。

卒論が書けなかった要因、留年理由

①恋愛・サークルにまつわる人間関係不和 ②夜職 ③単純に研究分野に対する苦手意識 ④研究室・教授とのコミュニケーション不足

①に関しては軽音部退部からの引きこもり経験から、12月から2月にかけての現実逃避による性依存、4月に彼氏ができるも7月に振られてしまう、軽音部復帰ができなかったことにかなりしんどい思いをした。すべては中途退部したのにもどろうとした自分のせいであるが。友達環境は変わるわ、人と会う機会は減るわ、ストレスとやっつけ無敵感はすごかった。「やっつけ無敵感」により②がはじまった。お金もないしと始めたセクキャバはストレス発散になるかなとか思っていたけど、自傷行為みたいなものでストレスは蓄積されていったと思う。すぐやめるべきだった。いまも在籍してる。はよ辞めないと。③社会学にいきたかったのに1年時の面談により地理へ。部活辞めるときに学生相談室いったとき、地理大変そうですもんね。といわれたこともある。3年の報告書はとりあえず出したが、あれもあれできつかった。自主性を重んじるってなんやねん。てめえは人なんか?④上の代は研究室にあつまっておしゃべりしていたのをよくみた。男ばっかりだったイメージもあるけど。1年のときにコロナじゃない世代だから、2年でマスクリモートになっても平気なことが多かったんだろう。か、リーダー格の人間がいたか。私たちにはそんなのは無かった。変な子がいるわけでもないのに、コミュニケーションはみな苦手だった。諦めでもあった。先生は今頃頭抱えてるんだろうなー。大丈夫ですよわたしはピンピン前向いてますよ。

先生も怖かった。今思えば適切な言葉を言っているだけなんですが、12月に勇気だして二人に相談した。相談時点ではどういう話にもっていくか、文学っぽく書くしかないよねといわれたけど、それは口頭試問で落としますよフラグだったよね。どうしようもなかったよね。イメージの研究をすれば?といわれてそうシフトしたけど私は自分で考える力がなかった。報告の日は学習ではなく適応させることだけを考えていた。耐えるだけ。追い詰められるとなにも考えられなくなっていた。何もない日もずっと寝ていた。夜にバイトしてたから朝4時とかに寝て。14時に起きて。死にたいから外にもでれずセルフネグレクト、風呂に入らず授業やバイトに行ったり。逃げ続けた結果。

研究は分析方法がない。客観性をもった調査結果がかけない。

考えすぎて鬱になってきた。前向けー。自分の中で。自分のなかと、友人との食事のなかだけだったら、自分を幸せにすることができる。ねえ。死ななくてよかったよ。生きててよかったよ。だから、やるべきことを見つけていきていこ。いつか幸せなところにいけるから。

とりあえず口頭試問で反省を述べて留年します。と正直に伝え、先生との問題をクリアして、親に報告、内定先に報告、したら、やることを毎日考えるんだ。寝ていてはダメ。毎日数時間ずつ考える。退去、就活、研究、バイト。あとは自分を喜ばせられることはなにか考えること。

ネガティブな私だから、現実逃避して終わる前に、少しでも前向きにしてください。